久遠(くおん)
戦時中、海軍燃料廠のあった徳山は、2度の大空襲に遭っています。
昭和20年5月10日、約800の米軍機が襲来。
海軍燃料廠を中心とした爆撃により燃料廠は破壊、死者は500名以上に及びました。
さらに7月26日、約100の米軍機が襲来。
多数の焼夷弾と小型爆弾を投下し、街はたちまち火の海に。
一夜にして市街地の9割が焼け野原となり、死者480名以上に及びました。
この5月10日、燃料廠には学徒動員の学生も多くいたこと、
父もその中の一人でかつがつ逃げ延びたが同級生4人が命を奪われたこと、
そして戦後、同級生と慰霊碑「久遠」を学校(現徳山高校)の中に建立したこと、
そんな話しを聞いたことがありました。
10月のある日、その亡くなられた同級生のお一人であるMさんの姪御さんという女性から
神社へ電話がありました。
自分の母はMの姉で、母は生前ずっと弟のことを気にしていたので母の代わりに
ぜひ慰霊碑と神社へお参りしたいという申し出でした。
私から、宮司が碑を建立した同級生の一人でありぜひご面会下さいとご返事し、
宮司も、Mさんとは近所同士でお姉さんも存じており、お会いできるのが楽しみのようでした。
そして先日、神奈川県よりご夫婦でお越しになりました。
「久遠」の碑のお参りは、徳山高校で丁重にご案内いただいたそうで、
神社参拝の後、宮司と1時間ほど面談して安堵してお帰りになられました。
この日、宮司から「亡くなった4人が4人とも一人息子だった」という話しも聞き、
ご遺族の悲しみの深さを改めて想像しました。
戦後これだけ長く日本が平和であったのも、
あの当時命がけで日本を守ってくれた人たちのお蔭であり、
平和の犠牲となった多くの尊い命のお蔭です。
平和の有難さをかみしめ、戦没者に慰霊と感謝の気持ちを持ちづづけることこそ、
今を生きる私たちが忘れてはならないことですね。
来年は、終戦70年を迎えます。