矢嶋作郎

天保10年、徳山藩士伊藤家の次男に伊藤 湊(みなと)という男が生まれた。
彼は、幕末に勤王の志士として活動し、一時幕府によって幽閉の身となる。
しかし、明治元年、彼は徳山藩10代当主毛利元功公の補佐役として、
英国に留学する。留学にあたり、彼は「矢嶋作郎(やじまさくろう」と改名した。
矢嶋とは、日本を表す「八州(やしま)」であり、作郎は新しい日本を創ろう
という志を込めた改名だった。
すると英国で留学中の矢嶋に、政府よりドイツ派遣の命が下る。
明治政府が、新紙幣の製造を最先端技術のドイツ企業に依頼したからである。
矢嶋は現地の責任者となり、その後明治7年に帰国するとすぐに、大蔵省で
紙幣製造の責任者に任じられ紙幣製造工場を設計、建設にあたった。
留学中に様々な先端技術を学び、電気事業の必要性を強く感じていた矢嶋は
その後実業界に転じ、明治16年「東京電燈会社」を設立した。
後の東京電力である。
また矢嶋は、障害者教育や英語教育にも尽力し、学校設立にあたった。
そして、東京電燈会社の社長を退任後は、郷里に帰り下松に居を構える。
矢嶋はここで、和歌に親しみながら余生を送り、歌人としての業績も多かったが、
ついに明治44年73歳で亡くなった。
矢嶋の没後、その土地20万坪は子孫より譲られ、日立製作所や東洋鋼鈑などの
工業地帯となっていった。
矢嶋作郎翁は、遠石八幡宮にも灯篭を奉納しているが、徳山藩の初代と最後の藩主を
祀る祐綏神社に、明治25年槙1本と栂2本を植樹している。
祐綏神社は動物園建設にあわせ戦後現地に移転しているので、今の動物園の中に
植樹されたはずだが、植樹の石柱だけが神社の境内に移設されていた。
この度、矢嶋作郎翁没後百年を記念し、ご親族から同じ樹木を境内に植樹したい、
というお申し出があったのでお引き受けした。
あまり知られていなかったが、この郷土の偉人を顕彰しようと気運が広がり、
実行委員会が組織され、今日、小雨の中ではあったが盛大に植樹祭が行われた。
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「矢嶋作郎」。  この名前に込められた志、気概に感銘する。
大きな志を立てての留学だったからこそ、紙幣製造、電気事業と近代化の基礎を
見事に成し遂げたのではないだろうか。
郷土の偉人の活躍に触れ、多くの人が誇りと勇気を感じたことだろう。

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