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推古天皇三〇年(六二二)の春、「この地に跡を垂れ国民を守らんとここに顕わる」との宇佐八幡大神のお告げによりご神霊を奉安し、和銅元年(七〇八)この地に社殿を造営したのを創建とします。 平安時代には京都の石清水八幡宮別宮となり、 本朝四所八幡の一つとも称されました。 江戸時代には毛利徳山歴代藩主の崇敬篤く、祭礼には諸国からも多くの参詣を集め門前は賑わいました。 その後も周防国の大社として信仰は広がり、明治時代の社格では県社となり、現在も八幡大神のご神徳を仰ぐ人たちの参詣が絶えません。 |
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応神天皇は、父仲哀天皇ご崩御の後、生まれながらにして第十五代天皇となられ、その腕が弓を射る時に手首につける「鞆」のようにたくましいことから「誉田別尊」と称されました。
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源平の戦と洪鐘(周南市文化財) 銘文には、源平の戦で流れ矢が鐘に当たり音が悪くなり、正和五年(一三一六)に新たに一鐘鋳造したが、音色が思わしくないので、元応二年(一三二〇)二口合わせて一鐘を鋳造し直したとあります。 |
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遠石と影向石 社伝に、往古宇佐八幡より神馬にて飛来され磯辺に現れた大石に降り立たれた際のお告げに、「あゝ遠し」とあり、遠くよりこの石に飛来されたことに由来するとされています。 この石は神社の西方の飛び地にあり、影向石として地元に人に崇拝されています。また、沖に大石があったからという説や、十名石があったからという説もあります。 |
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祐綏神社 ゆうすいじんじゃ
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児玉神社 こだまじんじゃ
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貴布祢神社 きふねじんじゃ
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